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漫筆

梯子のイマージュ:対人関係について

2013-04-10

人という字は人と人が支えあっている姿を表している、わけではなくて本当は、人一人の立ち姿を表した象形文字が基である、というのは周知のところだと思います。

十九歳くらいのころから私は、対人関係を考えるときには「人」文字ではなく、いつも「梯子」をイメージしていました。
まず一本の柱があります。これが一人の人間、個です。その柱は地面に埋まって立っており、どんどん伸びていく(進んでいく)イメージです。
他方、少し離れた適度な距離にもう一本柱があります。別の他者が立っています。
この二本の柱をつなぐように、何本かの横棒が渡されています。
この姿を横から見ると「梯子」に見えます。私はずっとこのイメージを持っています。

まず一本の柱として立つためには、自律することが必要です。
柱は独立して立つために、地面に深く刺さっている必要があります。これは個がそれぞれ自分の見方、考え方の基盤を持っている、ということです。

そして、自律した人どうしが時に横棒で支えあったり、たまには横棒を渡って相手の柱を登ってみる(相手の考えを参考にしたり、目線を共有する)ことで、関わりあいます。
二本の柱は、平行に進みます。「人」という字のように互いに寄りかかるわけでなく、最初からそっぽを向くわけでもなく、ぴったりくっついたり重なったりするわけではなく、「平行」です。
つまり、適度な距離を保ちつつも進むべき方向性が一緒である、思想の方向性が一緒である、ベクトルが同じ方を向く、というようなことを意味します。
二本の柱が「人」という字のようにお互いの方を向くと、交差したのちやがてその先は遠ざかっていきます。
私には、これはなんだか、依存しすぎた結果やがて離れていってしまうような関係に見えてしまいます。
また、最初からそっぽを向いては、どちらもあらぬ方向に向かってしまってそもそも関われません(横棒が渡せなくなる)。そしてぴったりくっついているのも疲れてしまいますし、人間皆違うのですから柱が重なり合うことはあり得ません。

だからまず「平行」です。交わりませんが離れません。人が他者を完全に理解してその人に成り替わったりできるわけはないので、平行にならざるを得ません。ですが、離れずに「並行」しながら(横棒で)支えたり、補完しあったりすることはできます。
二本の柱の関係はそんなところだと思っています。

柱が単独で立っている(横棒がない)場合というのは、相当強ければ生きていけるのかもしれませんが、悪くすれば「孤立」したり、独りよがりになったりする可能性があります。
また「そもそも立てない」状態も考えられます。立つために最低限必要なもの(例えば教育や情報)を得るとか、支援する必要もあると思います。
巷間よく言われる「自己責任」などは国家や政府が言うと無責任な自立の強要にしか聞こえません。一般的にも「自立しろ」とはよく言われますが、これらはいずれにしろ「孤立」にならないよう注意が必要だと思います。
孤立しないためには、適度な距離に他者の柱があって、横棒が渡されている状態が好ましいのではと思うのです。

そもそも私がこのイメージを考えたきっかけは「結婚観」の話からです。十九の頃から、この梯子のイメージに合う相手がいれば結婚してもよいけど、そうでなければずっと一人でもいいと思っていました。
結果的に結婚していますが、事実婚です。
梯子のイメージは基本的に二者の関係をベースに考えていましたので、三人以上の複数になるとどうなるかまでは考えられていません。大勢とか組織というのはいろいろ大変で面倒です。でも生きていくのに最低一人か二人、こうした梯子のイメージで付き合える他者がいれば十分ではないかと思ったりもします。

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