4月19日の安部首相の成長戦略スピーチで、成長戦略のひとつに「6.女性が輝く日本」というのが挙げられています。(首相官邸web site)
政策として語られると、なんだか妙なお題です。
いまだ「女性」って特別なものなんでしょうか? それはもしかしたら、男もいまだ特別なものだという意識の裏返しでもあるのでしょうか? 組織の役員とか政党の役職だとかに女性を登用したことを取り立てて言わなくてもいいような環境になるのはいつなんでしょうか。(ちなみに社民党は長いこと党首が女性ですが)
待機児童を減らさないと有能な女性が外に出ていけない、のは確かでしょうし、育児休暇3年もいいだろうと思います。ですが、育児休暇は男女どちらでも取得できる制度だし、男女雇用機会均等法だってもう40年前からあります。(もちろんこれらを改善すること自体に異論はありませんが。)
でも相変わらず育児に関することは女性の役割であることを前提にして話をしているのか、と疑ってしまうような言い方が奇異ですし、首相の言う「いまだに、多くの女性が、育児をとるか仕事をとるかという二者択一を迫られている現実」は、制度もそうですが、人間の意識の問題が大きいのだと思います。
男社会ゆえのある種の弊害や悪習を反省して改善策を施すことに異論はありませんし、なんでも平等ではなくて男女の特性ゆえにある程度役割が規定されることも否定しません。
ただ、これがスローガンのように言われること自体がなんだかおかしなことに思えます。
男が、女が、若者が、高齢者が、などどいってなにか役割を決めたり、活動する場を決めたりする(あるいは決まっているかのような風潮を前提に話をしているような雰囲気がいまだにある)、ということ自体に違和を感じるわけです。
根本は、一人ひとりの意識の問題なのに。
男も女も子供も、若くても老いていても病があっても障害があっても、世界中の人ひとりひとりが、一人の人間=個人として認めあって、特別な意識を持たずに活動できる状態であればいいのだと思います。
(「梯子のイマージュ:対人関係について」に書きましたが)人それぞれ自分の柱があって立っているわけですから。
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